インタヴュー

「骨がビリビリ」

シャリ・フリロット監督インタヴュー


インタヴュアー:エリッサ・フェイゾン


シャリ・フリロットは映画監督であり、またプログラマーです。
彼女は5年間、ニューヨークMIX国際レズビアン&ゲイ映画祭のディレクターを務め、引き続き理事会のメンバーです。
現在彼女はアウトフェスト(ロサンゼルスレズビアン&ゲイ映画祭)及び、MIX国際映画祭のプログラマーとして働いています。
秋には「STRANGE AND CHARMED」という新しい映画の制作に取り掛かる予定で、
現在は「RACINGSCIENCE」というドキュメンタリーに取り掛かっています。
彼女は第七回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭のためにFUNNY BONE(骨がビリビリ)という
レズビアン短編集をキュレータとして編成し、5月10日にその短編集を初公開するために来日します。


あなたはここ数年、映画監督、キュレータ−、プログラマー、映画祭のディレクターというさまざまな役割でレズビアン&ゲイ映画祭に関わってきました。ここ数年間にわたってニューヨークMIX実験レズビアン&ゲイ映画祭のディレクターを勤めていたニューヨークから、Outfestのプログラマーをしているロサンゼルスに移りました。

アメリカの様々なレズビアン&ゲイ映画祭のなかでもこの二つは全く対照的といえると思います。MIXは実験的な映画や有色人種の作家の作品を強調する構成をしているのに対し、Outfestの方は、よりメインストリームな一般受けする映画を上映することで知られています。両者ともクィアコミュニティーを観客としてもっているわけですが、どうして二つの映画祭が このように非常に異なる性格を持っているとお考えですか?また、この二つの映画祭がそれぞれどういう方向に進んで行くと思いますか?

 MIXとOUTFESTがとても違うのにはいくつかの理由がありますし、発足時から、その目的は違いました。特にMIXはゲイやレズビアンの実験的な作品を上映するためのもので、それに対しOUTFESTはもっと一般的なゲイやレズビアンによる、ゲイやレズビアンのための、ゲイやレズビアンについての映画を上映するためのものです。MIXは常に映画監督のための映画祭で、プログラミングやそれに付随する活動というのは主に映画祭での監督の経歴に中心をおくものですが、OUTFESTはもっと観客中心です。とはいっても、二つの映画祭の異なる性格を考えるうえで非常に重要な要素はその地域性だと思います。

 OUTFESTはロサンゼルス、つまりハリウッドのエンターテーメント産業の中心地でありますし、エンターテーメント産業は映画祭のあらゆるレベルに反映されています。理事会のメンバーもボランティアもグラマーシーピクチャーズ、ドリームワークス、NBC、オライオン、パラマウント、マンダレイといったところから来ています。それに対してMIXは実験的手法に深くかかわって、一般大衆受けのするものに抵抗する、マンハッタンのダウンタウンの現象なのです。MIXの理事会は主に映画監督から成っていますが、そのほかにクラブのプロモーターやパフォーマー、それに勿論会計士もいますよ。

 これら二つの映画祭の将来の方向ですが、もし双方がこれからも発展していくとすると、ますます離反していくでしょうし、これは良いことだと思います。MIXは実験映画、ビデオ、新しいメディアを広く知らせるための重要な場を提供してきましたし、これからもそうあり続けるでしょう。この4,5年、映画祭はゲイの内容であるなしにかかわらず、優れた実験的なメディアを上映することに大きな関心を持ってきています。それはまた、インターネットによるオンラインの展示会やインストールプログラムを開発するにしたがって、伝統的な映画祭の場所をさらに拡張し続けることにもなるでしょう。特にメインストリームのゲイ映画が形式的にもテーマ的にも停滞している現在、新鮮で、最先端のものに専念した映画祭が存在するということは非常に重要だと思います。

 それに対し、OUTFESTは「観客と映画製作者とエンタテーメント産業を結ぶ掛け橋を築く」ことに専念するため、その使命を変えました。言い換えると、それはよりハリウッド的な方向性をもっていくことになっていくでしょう。これもまた貴重なことだと思います。OUTFESTは他の映画祭が出来ない、ゲイやレズビアンの映画製作者にエンタテーメント産業へのアクセスを提供するというユニークな立場にありますが、これはこういった映画製作者自身がエンタテーメント産業の中枢にいるからなのです。

 よりメインストリームの観客をターゲットにすることに関心があったり、自分のプロジェクトを商業的に成功させたいと思ったりする映画製作者にとって、OUTFESTは彼らの目標を達成するための助けとなるような人々と出会える、またとない機会を提供する場となりつつあるのです。究極的にはこの映画祭はクィアな作品を育てたり配給したりしようとする会社にとってますます重要なものになって行くと思います。OUTFESTがそのプログラミングの幅を広げようとしているのにつれて、これからどんな映画がハリウッドから出てくるかということに影響を与えるようになるかもしれません。



      

ニューヨークからやって来たわけですがロサンゼルスでの生活はどうですか?

 本当に違いますね!この6,7年をニューヨークで過ごしたんでそろそろ変わる時期に来ていました。ニューヨークの速いペースや、自分のアパートを出るたびに出くわす新しいアイデアやイメージをエンジョイしてきたし、それがロスにないので残念に感じます。私は常に自分の生活がニューヨークでなければやっていけないと思います。でも、ここ南カリフォルニアの生活のペースや構造のお陰で自分自身の映画制作により集中することが出来、このことはとてもうれしく感じます。ここでの生活はニューヨークより細かく区分けされていて、場当たり的ではないので、自分で管理しやすく、それで大都市の要求や誘惑に惑わされることなく、うまく自分で時間と場所をひねり出して自分のことが出来るんです。(私の肺を腐らせている空気を除いては)ここに住むことは肉体的にもずっと簡単ですし、大きな空や広い紫の海も大好きです。素晴らしいインスピレーションになります!ロサンゼルスからほんのすぐ近くにある美しい自然も驚くべきものです!



      

MIXメキシコやMIXブラジルにかかわったり、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭の特別ゲストプログラム編成者として来日したりと、あなたの仕事はより国際的な傾向を帯びてきました。いくつかの点において、ヨーロッパやアメリカのレズビアン&ゲイ映画を非西洋の国々へ配給するのは、ハリウッドが何十年間も世界的な独占を占めているのと似たような状況を作りだしています。ちょうどハリウッドが何が「メインストリームの」映画なのかを決めることが出来るように、アメリカのクィア映画がレズビアン&ゲイ映画を作り上げる要素は何かを決めているようにも思われます。あなたはアメリカの外のクィアの映画製作者と仕事をしたり、アメリカの外の映画祭で働いたりしていますが、こういったことは変わり出しましたか?

 私のMIX国際映画祭におけるプログラミングの仕事というのはこれまでのところ主に短い実験的なメディアにフォーカスを当ててきました。私がこれらの映画祭のために準備するプログラム(ブラジルの場合年に2,3のプログラム、メキシコの場合年に10から15のプログラム)は欧米のゲイのメインストリームに 何が起こっているのかを僅かながら反映している傾向があります。私はこれらの映画祭にもっと多くの長編映画を紹介するようになるかも知れませんが、それは私が意欲をかき立てるような作品と思う、もしくはそれを見せることによって、こういった国々の観客に何かユニークなものを提供できる様な映画になるでしょう。例えば、私はMIXメキシコに「FEMALE PERVERSIONS」という、アメリカではアートシアター向けの映画と考えられている長編映画をプログラムに入れるよう強く勧めました。

 私はMIX国際映画祭のために準備するプログラミングがこういった国々の映画製作者に刺激を与えて、彼らがいわゆるアメリカのメインストリームのクィア映画に代わる、何か新しくて面白いものを作り出してくれたら良いと思っています。でも、ほんと、ブラジルやメキシコの映画製作者達は私の助けなんかなくてもずっとそうしたことはやってますよ。クィアであること、超越するセクシュアリティーであることというのはこれらの国々では非常に異なって考えられており、そのせいでこういった国で作られた映画は、性を扱ったテーマについて、うまくでき過ぎて意外性にかけたものにならずにすんでいます。ですから逆にアメリカの映画製作者の方がクィアというテーマで国際的な映画製作者が作っているものから多くを学べると思いますよ。

あなたは以前、自分の作品で何をどう言いたいかという自分自身のビジョンを発達させるために意図的に長編映画を見ることを長い間避けていたと言いました。そういったやり方があなたにとって効果を上げてきたと思いますか?

 ええ、このやり方は、たとえそれがアーティストとして自分に自信をつけると言ったレベルではないにしても、確かに効果を上げてきました。自分が多人種の人間(訳者注:要するに「混血」のこと)かつレズビアンで、コロラド州デンバー出身ということもあって、テレビや美術館、劇場で見るものすべてから排除されていると感じながら育ちました。アーティストとして成長していくためには、自分の周りに見えるものに没入するのではなく、私が不安や苦痛がなく、かつ創造するのにチャレンジと感じるようなアーティストとしてのビジョンを作りだすことに没入しなくてはいけないと自分では感じていました。

 メディアは私という人間が存在すること、いわんや私という存在が重要であるということを認めるのを拒否していると思えました(そして今でもしばしばそう思えます)。ですからメインストリームの映画を避けることが自分の芸術的才能や自尊心をある意味で守ったのです。自分自身の作品やスタイルを確立したとき、私のような人間を尊重し、認めてくれるコミュニティーに飛び込んでいったんです。そして今では、ますます多くの作品を見るようになって、形式的にもテーマ的にも、自分が独特のものを作りだせるようになったことはよくわかります。新進のアーティストが私のスタイルを取り入れているのを見ることさえあります。



      

あなたのプログラミングの仕事が映画作成のアプローチの仕方を変えたと思いますか?

 どちらかというとその反対だと思います。私は新聞や雑誌のイメージを使うコラージュアーティストとして仕事を始めました。私のスタイルというのは、ある特定のテーマについて対極のもの、様々な視点というものを並列することを強調します。これが私のプログラム編成のやり方だと思います。プログラムを編成することは私にとって程んど映画を作るのに等しいことです。

 でも私のいちばん新しいビデオ作品「BLACK NATIONS/QUEER NATIONS?」は、私がプログラム編成の仕事をするキュレータであることが、私の作品に影響を及ぼしている証拠となると思います。このビデオは同名のタイトルで、ある会議のために作ったのです。このビデオの目的は、その会議がより多くの聴衆にアクセスできるようにするためです。会議の内容を多くの人たちに知ってもらうのだったら、自分たちの作品でこの会議のテーマを取り合える黒人クィア映画製作者の作品を紹介したほうがいいと思ったのです。そういうわけでこのビデオの半分は画面に語り手が出て話すシーン、半分が黒人クィア映画製作者の幾つかの作品のコラージュとなっています。これは私が定期的にやろうというものではありませんが、その作品においては非常にうまく行ったと思います。



      

次回作について少しお話くださいませんか?

 今二つのプロジェクトを抱えています。一つは「STRANGE & CHARMED」という物語風の映画で、非常に個人的な話をこの物質界の幻想的な要素の中の枠にはめてみるもので、うまく行けばこの秋には製作が始まります。もう一つ「RACING SCIENCE」というドキュメンタリーも作っているところで、これはアメリカにおける科学上の人種問題に対する見解の変化に対する影響を調べるものです。



      

長編映画を制作する予定はありますか。それとも短編をこれからも作っていくのですか?また短編映画を作ることが魅力的だと感じる点はどんな点ですか?

 正直言って「STRANGE &CHARMED」がどんなふうになるかよく判りません。私の書く台本というのはいつも出来上がった映画よりもずっと短いんです。「WHAT IS A LINE」は4ページの台本だったのですが、10分の作品になりました。「BLACK NATIONS/QUEERNATIONS?」は15ページだったんですが55分の作品になりました。「STRANGE &CHARMED」は台本は35ページですが、30分の作品になればいい と思っています。まあどうなるかは分かりませんが。その作品がビジョンを一番はっきり表現できるように展開していくよう堅く決心しています。

    (日本語訳:中村彰)

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