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愛の悪魔

ジョン・メイブリイ監督インタヴュー
Interview with director John Maybury

インタヴュー:ジョン・メイブリィ

インタヴュアー:小倉東&北条貴志


北条:まず最初にこの映画の出発点について教えてください。
 これは僕のアイディアではなく、BBCのジョージ・フェイバーのアイディアだったんだ。最初は1992年に「MAN TO MAN」という映画を撮り、これがBBCで放映され大成功を収めたんだ。そして、4年半まえぐらいかな?、彼が突然電話してきて、「フランシス・ベイコンの映画を撮ってみないか?」と言うんだ。最初は断わったね。その時はベイコンの映画を撮ることになんの意義も見い出せなかったから。そしてその後に脚本を書いてくれと頼まれたんだ。でも今まで脚本を書いたことはなかったから、興味を持って即座に「Yes!」と答えたんだ。それが始まりだったね。

 アートスクールの学生の頃から、ベイコンの作品には興味を持っていたけれど、どういう側面に焦点を当てるかは僕次第だった。だからジョージ・ダイアーとの関係に焦点を当て、ラブストーリーにすることにしたんだ。

北条:なぜ彼らの関係に焦点を当てたのですか?
 ベイコンの描いたジョージ・ダイアーの絵は僕のお気に入りの一枚なんだ。だから彼らの関係を描くということは、僕にとって「分析」するようなものだったのさ。また彼らの関係についてはあまり知られてなかったしね。

北条:最初の長編作品を撮るにあたって、なにか留意した点とかはありますか?
 20年近く実験映画を撮ってきて、映像やイメージを作り出す経験はあったけれど、物語るということは初めてだったんだ。だからそれはとても面白い経験だったと思うよ。

北条:ベイコンの作品を映画のなかで使用することができなかった点については?
 結果としてはよかったと思う。なぜなら絵画についての映画を撮る気はなかったのでね。誰かの絵画を映画の中で観るなんて、僕にとっては退屈なことだね。それよりもアーティストの人生や彼らが作品を生みだしていった過程の方に興味があった。だから「映像言語」を使うことによって、ベイコンの絵画や技術を映画的に表現しようと思ったんだ。こうしたことはこの映画に特別な価値を与えたと思うよ。

 またこれは画家についての映画じゃない。これはベイコンの心の中に入り込んで、彼の目を通して見た映画なんだ。だからその点において、この映画は他の芸術家を扱った映画とは一線を画していると思うよ。

 だけど、映画の中でベイコンの作品を使用させなかっただけでなく、彼ら(フランシス・ベイコン財団)は映画の製作を阻止しようともしたんだ。

北条:脚本を書くのも初めてだったわけですよね。
 僕は詩とか散文のようなものは書いているよ。「リメンバランス」の時も、もっと抽象的ではあったけれど、簡単な脚本は書いていたしね。それはウイリアム・バロウズの「カット・アップ」のようなものだったんだ。

 挑戦とも言えたのは、ベイコンの実際の生活を詩的な言語で表現することだったんだ。しかし製作の過程で脚本を書く自信も得られたし、できあがった脚本もいい出来だったと思う。

 この映画を作るにあたって、多くの本を読んで参考にしたんだ。50年代や60年代のゲイ文化を知るためにジョン・オートンの日記や戯曲なんかをね。またベイコンの心理に迫るために、ギリシャ悲劇やジャン・ジュネなんかも読んだ。これは一種のコラージュみたいなものだったんだ。様々な異なるものを読んで抜粋を書いて、そうしたものを出典もわからないくらいにバラバラにして、自分のものにしたのさ。だからそれぞれ異なる食材をミキサーに入れて、スープにしたようなものなんだ(笑)。

北条:セルゲイ・M・エイゼンシュタイン監督の「戦艦ポチョムキン」を引用してますが、これはベイコンのお気に入りの作品だったから、というわけですよね。
 お気に入りの一本、というとこだろうね。

北条:映画のなかで魅力的なオマージュを捧げていますよね。ベイコンがボクシングを観ている時に、ボクサーの血が飛び散り、ベイコンの顔にかかる、というシーンで。
 主な理由は彼があの映画のなかで看護婦が頭を撃ち抜かれるシーンを、自分の幾つかの絵画に参照として使っていたからなんだ。そして僕が「戦艦ポチョムキン」を引用したのは、映画やイメージ、写真というものが、どのようにしてベイコンの作品に影響を与えたか、ということを描きたかったからなんだ。

 また同時にベーコンが暴力に魅了される、残酷な場面を官能的だと感じるシーンも描きたかったんだ。彼は暴力を絵画のなかで官能的に表現したしね。

北条:「戦艦ポチョムキン」は僕も大好きな映画なのですが、監督はお好きですか?
 傑作だと思うよ。編集を例にとってみても、あらゆる点においても革命的だったと思うよ。文字通り「革命」を題材にしていたんだけどね。それにエイゼンシュタインもゲイの映画監督であったし。

北条:デレク・ジャーマンを除いて影響を受けたゲイの映画監督はいますか?
 いっぱいいるよ。ケネス・アンガー、ジャン・コクトー、アンディ・ウォホール、ファスビンダー、多すぎてきりがないよ(笑)。

北条:撮影について話していただけますか?映画全体が歪んだように撮られていますよね。
 できる限りベイコンの絵画に近づけるために、実に多くの技術を使った。歪んで見えたり、醜く見えるというのは重要なことだったんだ。ジョン・ディーキンの写真もこの映画に大きな影響を及ぼしていると思う。彼はとても小柄な人で、いつも見上げるようにして対象を捉えていたので、作品も独特のスタイルで出来ていたと思う。だからベイコンとディーコンのスタイルに極めて忠実に描いたし、彼らの作品を通じて多くのことを教えられたと思う。

北条:映画のなかで鏡やナイフ、ブランデーグラスなど、登場人物や物が反射して映る、という構図を多用していますよね。
 これも同じくベイコンの作品世界を映画の中で展開するためなんだ。また鏡というのは、僕の作品にとって特に重要なものでもあるんだ。それにこれはジャン・コクトーの参照でもあるんだ。コクトーの映画ではいつも鏡が未知の世界への道標となるからね。

 またベイコンの作品のなかでも鏡は多く使用されていた。鏡に映る姿というのは、歪んだ姿であり、光は歪んだ影を作りだす。そのような対比が彼の作品の興味深い点だと思うし、そうした雰囲気を映画の中で再現しようとしたんだ。またこの映画の中では、そうして映し出された姿が美しく捉えられていたし、時として実物を見るより、そうしたものの方が美しいと感じる時もあるからね。

北条:照明も光と影のコントラストが素晴しくて、造形的な映像を作りだしていますね。
 その事を話すには撮影監督を呼んでこないといけないね。彼の領域だから。
 
 この映画の照明というのもまた、すべてベイコンの絵画を参考にしているんだ。特にベイコンの絵画で興味を引かれるのは皮膚の色なんだ。だからそうしたベイコンの絵画の参照というだけでなく、この映画に独特の陰影を与えるために、照明は緑や紫のフィルターでかけられ、皆病人のように見えるようにした。誰もが健康的で美しく見えるハリウッド映画とは正反対のやり方でね。

 また僕は陽の光が出てこないことに興味があるんだ。この映画の中で唯一太陽の光に照らされるのは、交通事故で家族が死んでいるシーンだけだ(笑)。

 あとデヴィッド・リンチの「ロスト・ハイウエイ」にも強い影響を受けたと思う。あの映画の照明は本当に美しく、同時に暗さを感じさせるものだったからね。

北条:デヴィッド・リンチも絵画に強い影響を受けている人ですよね。特にベーコンとかに。 
  それは言えてるね。以前、彼の初期の絵画作品を観たんだけど、出来損ないのベイコンの絵みたいだったね(笑)。

北条:音楽を坂本龍一が担当してますが、彼が映画音楽を作る時は、もっとドラマティックで叙情的な音楽をイメージするのですが、今回はかなりミニマルなかんじでしたね。
 僕が初めて彼と会った時に、「あなたの映画音楽は『ラスト・エンペラー』も『シェルタリング・スカイ』も大好きです!」と言ったんだ。でもそういう音楽は作ってほしくはないと(笑)。彼に違うアイディアを話したんだ。もっと実験的で冷たい感じのするテクノミュージックとか、能のような日本の伝統音楽のこととかね。僕はロマンティックな音楽は欲しくなかった。観客の感情移入を阻む、冷たい雰囲気の音楽がほしかったんだ。

 彼の音楽は本当に美しく、新しいものだった。彼はとても素晴しい、才能溢れるミュージシャンだ。ニューヨークで数日話しただけだけど、彼に全てをまかせたんだ。「あなたが好きなようにやっていいと」。彼が作り出したあらゆることは完璧だったね。彼は幸せだったんじゃないかな?彼がいつも映画音楽をやる時は、監督が音楽を台詞や効果音の背後にかけるようにするけれど、「愛の悪魔」のなかでは音楽も台詞と同様に全面に押し出してみせたんだ。

北条:他に一緒にやってみたいミュージシャンとかいますか?
 既にミュージックビデオで多くの人と働いているからね。坂本龍一と仕事をするという野望は果たされたわけだし、それに残念なことに僕が一緒に働いてみたいと思うミュージシャンはみんな死んだ人ばかりなんだよ。ブライアン・ジョーンズやジミ・ヘンドリックスとかね。

北条:ブライアン・イーノやマイケル・ナイマンは?
 彼らの作品は好きだよ。ただ2人とも数多くの映画音楽をこなしているから、もうメジャーになりすぎてしまったね。もちろん坂本も多くの映画音楽を作ってきた。しかし、僕は彼が今まで作ってきたものとは別の側面を引き出すことができたと思う。

 それにブライアン・イーノはもうありふれた存在になってしまった。デレク・ジャーマンが「ジュビリー」や「セバスチャン」でイーノを使った時は新鮮だった。しかし、今の彼は新鮮でもなんでもないね(笑)。

北条:サイモン・F・ターナーは?
 彼はとてもいい人だ。彼ともいつか仕事をしてみたいと思う。僕はダニエル・ゴダードと一緒に働いたことがある。彼は「愛の悪魔」では編集を担当していたんだけどね。「ジェネトロン」のなかでダニエルは音楽を担当してくれた。今年、ロンドンでビデオインスタレーションの展覧会をやった時も、ダニエルは音楽を担当してくれたんだ。

北条:主演の二人を選んだ理由について教えてください。
 最初はマルコム・マグドウエルがフランシス・ベイコンを演じる予定だったんだ。契約書にもサインをしたんだけど、撮影直前になって突然降板したんだ。ベイコンの絵画を使用できないとわかった時同様に、みんな「なんて最悪なんだ」と言ったけど、僕は「最高じゃないか?」と言ったんだ。マルコム・マクドウエルが降板したと知った時、浅井さんはがっかりしていたけど、僕は「隆、大丈夫だよ。デレク・ジャコビの方がもっとうまくやれるし、彼の方が俳優としては上さ」と言ったんだ。

 ダニエル・クレイグも重要な選択だったと思う。彼は実に才能ある若手俳優だ。まだ無名だけど、将来大スターになる素質を備えていると思う。次回作ではキム・ベイジンガーと共演するから、きっともっと有名になることだろうね。「愛の悪魔」で賞にも輝いたし(エジンバラ映画祭でデレク・ジャコビと共に最優秀演技賞を受賞)更に注目を集めることだろう。だから、来年の今ごろになったら、君も僕のことなんか忘れて、ダニエル・クレイグのことを話していると思うよ(笑)。

 他のキャストも僕の友人であるティルダ・スウィントンとは何度か一緒に仕事をしてきたし、アン・ラムトンも素晴しいし、デレク・ジャーマンの「ジュビリー」で若いパンク青年を演じていたカール・ジョンソンもジョン・ディーキンを演じていた。これは脇役でも面白いキャラクターがいるという、昔の40年代や50年代のイギリス映画のスタイルに近いものがあると思う。エキストラもアーティストやデザイナー、有名人が演じていたけど、誰が誰を演じていたかなんて知る必要はないんだ。まぁもちろん誰だか分かればより面白いけどね。この映画の中で描き出されていた60年代のバーでは、実際アーティストやデザイナー、ジャーナリストたちがたむろしていたんだ。だから、本物のアーティストやジャーナリストがそれを演じるのはまた面白いことだと思うよ。

北条:「VOGUE」のファッション・エディターであるハーミシュ・ボールズがデヴィッド・ホックニーとしてカメオ出演してますね。
 彼は僕の友人だし、少しだけホックニーに似ているからね(笑)。編集でカットされた場面にはステラ・マッカートニーも出ていたんだよ。そうした人たちを映画に出すというのは僕にとっては本当に面白いことだったよ。「ハーミシュ・ボウルズは役者としては最悪だ。絶対映画に使っちゃだめだ」と忠告してくれた人もいたよ。たしかに彼は役者としてはよくない。でもシェイクスピア俳優があんな小さな役を演じる必要はないんだ。ああしたシーンを撮ることは本当に楽しかったよ。
 

北条:ベイコンがホックニーを評する台詞が好きなのですが。「作品同様退屈な奴だ」(笑)
 それはベイコンが言ったことだよ。僕が言ったわけじゃないよ(笑)。本当だよ。ベイコンの言ったことの引用だもの。ベイコンはホックニーのことを嫌っていたんだろうね。ホックニーの方が若かったし、まあ嫉妬のようなものだったんだろうね。

北条:海外資本で撮ることはどう考えてますか?
 これはいいことだと思う。予算の大半はBBCから来ていて、他にはイギリスの宝くじの助成金、それにアップリンクとフランスの「Premier Heure」からだ。浅井さんとは関係が深いし、今までずっと僕をサポートをしてくれた。映画の製作が終了した後も、日本での公開の目処もたって、シネマライズで公開することができた。今
のように製作費を調達するのが難しい時代に、こうしたインディペンデント映画を製作するには、複数の会社との共同出資でやらなくてはならないんだ。また大きな映画会社だと、たとえそれがミラマックスやファインラインのようなインディペンデント会社であっても、彼らは映画の内容を変えようとしたり、編集しようとしたりする。しかし「愛の悪魔」では僕が全ての最終決定権を得ることができた。浅井さんや「Premier Heure」の人たちと一緒に働いてきて素晴しかったのは、彼らは作品内容に一切干渉しなかったことだ。ずっとサポートしてきてくれたんだ。

北条:「愛の悪魔」はロンドンで興行成績の上位に入りましたよね。これは予想してましたか?
 いや全然(笑)。だって「モンタナの風に抱かれて」や「アルマゲドン」なんかよりヒットしたんだからね。本当に驚いたよ。「愛の悪魔」の予算は「モンタナの風に抱かれて」の宣伝費とほぼ同額だったんじゃないかな?ただ言えることは、映画の観客はハリウッドの重役が考えるほど馬鹿じゃない、ということだろうね。「
愛の悪魔」はやや難しい映画だと思う。しかし、多くの観客が観に来てくれた。そして大切なことは僕個人が勇気付けられた、というだけでなく、こうした映画を作りたいと考えている映画監督たちをも勇気づけたということだろうね。

北条:「愛の悪魔」はカンヌ国際映画祭で初めて上映されたわけですが、反応はどうでしたか?
 カンヌでの反応は素晴しいものがあった。商業的な業界雑誌である「Variety」にも熱狂的な評が出たしね。「芸術家を描いた映画の中でもベストの一本」だと。カンヌでの評判はだいたいよかった。フランス人はスノッブだから、彼らが好きなイギリス映画というのはマイク・リーやケン・ローチのような「リアリズム映画」な
んだ。「愛の悪魔」のようなイギリス映画は好きではないんだ。

 「愛の悪魔」が公開された週には、誰もがこの映画について話していて、話題の一本だったんだよ。だけどカンヌ映画祭自体は最悪だね。ビジネスマンが金について話しているだけの、見本市みたいなんものだ。芸術性は重要視されないんだ。ベルリンやトロントといった映画祭の方がもっと面白いし、映画をビジネスと結び付
けることなく、映画や映画監督に対し敬意を払ってくれるしね。

北条:宝くじの助成金で撮ってるわけですが、これは面白いシステムですよね。
 まあ変わっているよね。この映画もその恩恵を被っているわけだから不満はないけれど、本来はこうしたお金というのは病院の運営費とかに使われるべきなんだよね。芸術というのは政府が保護すべきものなんだ。しかし、今の政府は自分たちがやるべき行為をおざなりにして、その代わりに宝くじの助成金で賄っている。宝く
じを買っている大半の人は低所得者層だ。そしてそのお金は主にオペラハウスの維持に使われてしまう。つまり貧乏な人が金持ちの娯楽のためにお金を払っている、という矛盾になるんだ。僕もたまに大金を夢見て宝くじは買うけどね(笑)。

北条:映画製作費に当てるためですか?(笑)
 いやいや、バカンスのためとか、服を買うためにね。 

北条:残念なことにこの映画で男性性器が露出するシーンは修整されてしまうんですよね。こうした検閲行為についてどう思いますか?
 まあ残念なことだよね。同じ「英国映画祭」で上映された「地球に落ちてきた男」は修整されずに、僕の作品は修整されようとした。理解に苦しむよね。ペニスを出すことのどこが悪いか分からないね。みな性器を持っているんだから、そうしたものを検閲しようとする行為は馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないよ。日本では「猥褻」だと考えられているものが全然違うんだよね。援助交際みたいなものの方がずっといかがわしいと思うけどね。裸体というのは美しいものだと思う。ペニスが柔らかくても、固くても関係ないね。しかしこういうことは本当に悲しいことだね。可能な限り美しいものを作り上げようとしているのに、修整させられてしまうんだ。

北条:同じく「英国映画祭」のなかで上映された「鳩の翼」の中でも、本の中に描かれた男性裸体画が修整されてしまったんですよ。
 本当かい?じゃあギリシャ彫刻の男性裸体像はどうなんだい?一体どういう基準で検閲しているのか全然わからないね。今は1998年だ。昔とは違うんだ。だけど僕がこの国の法律を制定しているわけではないし、君の過ちでもない。しかしこうしたことは「未熟」としかいいようがないね。彼らはペニスを見るとみんな逃げ出すとでも思っているのかね?さっぱり理解できないよ。

小倉:僕はイギリスの家のことはよくわからないのだが、キッチンとバスタブはあんなに近い所にあるのだろうか?あれは創作なのだろうか?
 あの時代にはよくキッチンとバスタブは近くにあったんだよ。小さいアパートだったから、その方が機能的だったからね。

小倉:なぜかというとあそこには僕の好きなシーンがあったので、ジョージが手を洗う。それでその手をベーコンが握り締める、というシーンがとても印象に深いシーンだったので。
 僕もあのシーンは大好きだよ。あの時ジョージはマクベス夫人のように精神的に不安定な状態だったんで、自分の身体に傷つけたりしてたんだね。

小倉:例えば、あのシーンはとてもロマンティックなシーンなのだが、ベイコンのような正直者のマゾヒストは果たして幸せになれるのだろうか?
 あのシーンで面白いのはベイコンがマゾヒストとして描かれている点だよね。しかし精神的にはサディストでもあった。そうした要素が彼のエネルギーにもなっていたんじゃないかな?僕にとって驚きなのは、彼は言葉の上では暴力的であったとしても、ジョージの方が肉体的には暴力的だった、ということだね。僕にはそうした点がこの映画を物語るうえで重要なことだったんだ。

小倉:とても僕の興味もSMの所に集中していくんだけれども、例えばこの中ではベイコンとはとても欲張りな人間で、自分を捨てることができずに自分の欲望に忠実に生きていける人間なのだが、どこかで手を洗う、ジョージの手を握り締めるような人間と人間のリレーションシップといったものは果たして幻想にすぎないのだろうか。この映画はあくまでアーティストが創造のエネルギーを生みだしているんだ、というバランスのとれた人間関係ができるかどうかは答えをしめしていないのだが、メイブリイ監督自身はどう思ってらっしゃるのかしら。
 ジョージは感情を表現する手段を持っていなかったので、ベイコンとの関係のなかに自分を当てはめようとしたんだ。そして、彼が変わっていけばいくほど、ベイコンの恋愛の対象からはずれていってしまう。ジョージが完璧だったのは、二人が初めて出会った時だけだった。二人の関係が続いていく過程で、ジョージはますますベイコンに近いものになっていき、それがジョージの終りでもあったんだ。もう最初の頃のジョージではないんだ。そしてベイコンはジョージに興味を無くしてしまう。だけど彼らのような上流階級と労働者階級の関係というのは、いつもそういうことが起こるものなんだ。最初に魅せられるものは自分にないものであり、関係
が続いていけばいくほど似たもの同志になってしまう。それがこの映画に描きだされた悲劇だろうね。

小倉:階級に関しては日本では肌でわかるようなことはないのだが、イギリスでは階級差という問題がいまだにあるのかどうか?
 本当に日本にはないの?日本でもはっきりしたものがあるんじゃないのかな?皇室の人たちが2丁目でうろつくなんてことはないだろ?こうした階級というのはどこにでも存在すると思う。アメリカ人もよく「イギリスのような階級差はありませんよ」と言うけれど、アメリカでは金が階級差を作り出しているね。金持ちは低所得者の住む地域には足を踏みいれない。ただし、イギリスではこうした階級差がかなりはっきりと分かるようにはなっているんだ。僕はこれを全然いいことだとは思わないけどね。

 アメリカの「貴族」というのは東海岸に住んでいるし、それにあっちは学歴社会でもあるしね。だけどそういうことはイギリスではもうそれほど重要なことではない。確かに「サー」「レイディ」といった称号はあるけれど、そうした伝統は習慣として残っているだけなんだ。それに日本にも経済を牛耳っている大家族、財閥みたいなものがあるんじゃないのかな?

北条:「リメンバランス」について教えてください。この映画に出ている大半の人が、撮影当時HIVポジティブだったんですよね。

 これはAIDSだけについて扱った映画じゃない。メディアや多くの侵攻について扱った映画なんだ。メディアは僕らの生活を侵すし、AIDSは多くの僕の友人を蝕んだ。またテクノロジーも僕たちの生活を侵している。そうした醜いもののなかから、美しいものや詩的なものを探し求めるということに興味があったんだ。

 この映画を作った当時は面白かったけど、今ではあまり興味もなくなってしまったね。この映画が製作された1993年当時は映画の中で使われたテクノロジーは新しいものだったけど、今ではすっかり古臭いものになってしまった。今では「愛の悪魔」のようにテクノロジーに関係ないものの方に興味があるんだ。もっとシンプルであり、効果的なもの。「リメンバランス」以降も同じ様なスタイルの映画を作ったけれども、それもまたホモエロティックでありサイケデリックで、ドラッグをやりながら観るぶんには最高なんじゃないかな?

 あと「GENETRON」も誇りに思うよ。モノクロだけど、とてもテクノなかんじで、それはジャン・ジュネの詩を基に作られたんだ。それもまたホモエロティックであり官能的なんだ。

 今年はインスタレーション用に90分のビデオ作品を作ったし、それもモノクロやマルチカラーの映像を使ったり、異なるスタイルの映像をまぜあわせたんだ。日記のようなもんだね。しかしそれは全て同じ「映像言語」で語られているんだ。


北条:この映画のなかで度々「妊娠した日本人男子学生」という言葉を繰り返し使ってますね。あれはなにか意味があるんですか?
 それはただの「カット・アップ」手法によるものだよ。ウイリアム・バロウズの小説のように、ある文章が出てきたら、また違う文章が出てくるというようにね。元々は「妊娠した日本人」なんていう言葉はなかったんだけど、どこからか思いついたんだね。だから別に重要な意味はないんだ。

北条:またジョルジュ・メリエスの「月世界旅行」やレニ・リーフェンシュタールの「意志の勝利」などの引用も含まれてますね。
 異なるメディアの映像ををまぜあわせたんだ。メリエスの映像を使ったのは、それが100年前の最新テクノロジーだったからなんだ。リーフェンシュタールの映像は、マルチスクリーンに映し出されるニュースを初めとする様々なイメージをモンタージュしたもので、全然意味はないんだ。それにしてもよくわかったね(笑)。

北条:主演俳優であるルパート・エヴェレットについては?
 ルパートは親友の一人だ。この映画に出演を依頼した時は、彼もそんなに多忙ではなかったから、即座に承諾してくれたよ。でもその頃はまだゲイであることを隠していたのだから、勇気のある行為だったと思うよ。だけどカミングアウトをしてからは、もっと大きな成功を収めるようになったし、なんたって「ハリウッドの最
初のゲイスター」だからね(笑)。

北条:映画におけるゲイの描写という点ではアメリカよりヨーロッパの方が寛容な気もするのですが。
 それは言えてると思うよ。「去年の夏、突然に」を例にとっても、ハリウッドでは同性愛を題材にしているのに、ゲイの描写はしなかった。他にも「熱いトタン屋根の猫」でも、ポール・ニューマンのキャラクターはゲイなのに、ゲイだという描写はされていない。

 確かにヨーロッパはもっと寛容だと思う。「ヴェニスに死す」は美しい詩的な映画だし、遥か昔のコクトーやジャン・ジュネの「愛の唄」なんかも同性愛を主題としている。ファスビンダーもまた同様だ。

 ただし、僕にとって同性愛の題材というのはそれほど興味はない。確かに僕の作品には繰り返し同性愛のイメージが表われる。しかしそれほど重要なことではないんだ。僕は自分を「ゲイ・アーティスト」と呼びたくはない。ただの「アーティスト」なんだ。ピーター・グリーナウエイを「ヘテロセクシャル・アーティスト」なんて呼ばないのと同様にね(笑)。

北条:コクトー、ヴィスコンティ、ファスビンダー、パゾリーニというゲイ映画作家は、極めて素晴しい「ヘテロセクシャル・ラブストーリー」も撮っていますよね。あなたもそういう作品は興味はありますか?
 多分ね。でもわからないよ。次作はギリシャ悲劇の「王女メディア」になるつもりだ。もちろんこれは「ヘテロセクシャル・ラブストーリー」だよ。 

北条:パゾリーニのヴァージョンは観ましたか?
 もちろん観たよ。だけど、僕の作品はパゾリーニの作品とはだいぶ性質の異なるものだろうね。彼は実に素晴しい古代の世界を作り上げたけど、僕の映画は未来が舞台になる。もっと大きな違いは、パゾリーニはイタリア語で撮ったけれど、僕は英語で撮るし、彼はマリア・カラスを使ったけれど、僕はティルダ・スウィントンを起用するんだ。

北条:先日、「Time Out」(ロンドンの週間情報誌)の30周年記念号を読んでいたら、監督が過去30年に作られた映画のベスト10本を挙げておられましたが、そのなかにパゾリーニの遺作である「ソドムの市」がありましたね。
 「ソドムの市」は残酷であると同時に美しい、とても大好きな映画だよ。あの映画を観た後は病気になってしまったくらいだよ。だけど2週間たっても映像が脳裏に焼き付いて離れなかったんだ。

 この映画の素晴しい点は残酷なイメージと美しいイメージが共存しているところだと思う。他の映画監督でここまで美と恐怖を同時に描き出した人はいないんじゃないかな? 

北条:他にも「鏡」「時計じかけのオレンジ」「パフォーマンス」なども挙げておられましたが、監督がお好きな映画というのはマイク・リーやケン・ローチらの映画とは異なる性質のものですね。
 マイク・リーやケン・ローチの映画というのはTV向きなんだよね。あれは僕の考える映画じゃない。ああいった「リアリズム」というのはTVにはちょうどいいと思う。僕が映画で好きなのはマジックであり、夢なんだ。映画館に行ったら、非日常的な場所へ連れていって欲しいんだ。退屈な日常生活なんかを映画館で観たいとは思わないね。

北条:「マイ・ビューティフル・ランドレット」や「モーリス」はお好きですか?
 いや全然(笑)。なんとも思ってないよ。だってあれは「フィラデルフィア」なんかと同様に、ストレートの観客のために作られた「ゲイ映画」だからね。今のハリウッドの風潮にはうんざりするね。なんでもゲイの登場人物が登場するんだけど、所詮はストレートの世界のためのゲイの姿なんだ。

北条:アメリカなどでは、ゲイの登場人物を否定的に描くとゲイ・グループに批判されますね。
 「愛の悪魔」も批判されたんだよ。「なんでもっと幸せに生きるゲイの姿をみせないのか」って(笑)。だって、これは事実を基にしているのだし、実際彼らは幸せではなかった。僕に嘘をつけというのかい(笑)。今はそうした「ゲイが幸せに生きる姿を描かなくてはいけない」という「偏見」が強いんだね。

 僕個人、過去10〜12年の間に少なくとも10〜15人の親しい友人をAIDSで亡くした。そして多くの人々が今なおAIDSのために苦しみ、死んでいってるんだ。そんな状況のなかでどう幸せになれるのだろう?ジムに行き、エクスタシーを飲んで、「ハッピー、ハッピー」なんて馬鹿げてるね。

 アメリカ文化というのは完全に「病んで」いるね。特にゲイ文化は「病んで」いると思う。といってもそれはAIDSで、という意味ではないんだ。なんでも肯定的に描かなくてはいけないという「イデオロギー」に病んでいるんだ。なんでも「幸せ」なように振る舞うというのは危険なことだと思う。確かに今でもゲイに対する多くの偏見や暴力・殺人行為というのが絶えない。ニューヨークやサンフランシスコに住んでいれば大丈夫だろうけど、アーカンソーなんかではそうもいかない。

 結局みんな現実逃避のために、ファンタジーの世界に生きているんだね。僕のファンタジーというのは、美しく夢に満ちているけれど、どこか現実味の感じさせるものなんだ。「愛の悪魔」は美しいと同時に、残酷で物悲しい映画だと思う。しかし同時にリアリティも十分あるんだ。すべてが順調なように振る舞うというのはおかしいことだね。例えばACT-UP。彼らはかつて偏見を取り除くために闘っていたけど、今では彼ら自身が偏見を作りだしているんだ。

北条:デレク・ジャーマンと仕事をした経験について教えてください。
 彼は素晴しい人だったし、知的で刺激的な存在だった。彼は僕が18歳の時に、映画を撮るきっかけを与えてくれた。彼とは「ジュビリー」「ラスト・オブ・イングランド」「ウォー・レクイエム」なんかで一緒に仕事をした。

 僕の親友の一人であったし、最も重要なことは彼は僕の作品というより、僕の人生に多大な影響を及ぼしたことだと思う。彼は僕に平凡な日常生活をどのように特別なものへと描いていくか、ということを教えてくれたんだ。彼がいないことは本当に寂しいことだよ。僕に言えるのはそれだけだね。

北条:デレク・ジャーマンは現在のイギリス映画に影響を及ぼしたと思いますか?

 彼はまだ影響を及ぼしていないと思う。彼の及ぼした影響がわかるには長い時間がかかるんじゃないかな。もっと若い世代がデレク・ジャーマンを再発見し、その重要性を認識するようになった時、その影響力がわかるようになるんじゃないのかな?彼の晩年は、作品の本当の価値よりも、AIDSのことばかりが大きく取り上げられすぎたと思う。彼が成し遂げた重要なことは「映像詩」を作りあげたことなんだ。

 デレクは今なおまぶしい輝きを放つ小さな光のようなものだ。もっと若い世代が彼の作品を再発見した時、その光はますます輝きを増していくんだ。

 ただデレクの影響について言えば、彼はパゾリーニやケン・ラッセルにも強い影響を受けた。これは家系図みたいなものだね。多くの人が影響しあい、その考えに変化を与えていくんだ。 僕も彼の作品がどのように影響を与え、後の世代がどういう反応を示していくか、ということには興味があるよ。僕は彼と一緒に仕事をしてきた。彼の「ために」やったわけではない。僕の作品は彼の作品でもあるんだ。彼は自分の領域を作りあげ、作品で埋めつくした。そして彼が死んだとき、それは終りを意味した。しかし彼の作品や人生の全体像を見渡すことができるようになった。

 以前、パルコで彼の初期の作品を続けて観た時、そこには彼の人生が投影されていたのを発見したんだ。それは日記のようなものだね。人生の全ての事柄がそこには記録されていたんだ。


北条:同世代の映画作家で興味を持っている人はいますか?
 フランスの映画作家ガスパー・ノエ(『カルネ』)は大好きだよ。僕の友人であるトッド・ヘインズ(『ポイズン』)の作品も好きだ。「ベルベット・ゴールドマイン」はまだ観てないけどね。他にもトム・ケリアン(『恍惚』)なんかも好きだけど、「同時代性」を感じる映画監督は少ないね。

 また面白いことに、僕はイギリスの同世代の監督に共有するものは感じないんだ。ダニー・ボイル(『トレインスポッティング』)や「フル・モンティ」の監督なんかには同時代性は感じない。彼らとはなんの繋がりすら感じることはないね。僕自身は、「ヨーロッパ映画」に近い存在だと思っている。それにトッド・ヘインズなんかの方がはるかに「アメリカ映画」よりも、「ヨーロッパ映画」に近い感性を持っていると思うよ。他にもアトム・エゴイヤン(『スイート・ヒアアフター』)も人柄も作品も好きだね。

 だけどやはりガスパー・ノエとトッド・ヘインズこそ「同時代性」を感じさせるし、また競争相手でもあるんだ(笑)。

 (訳:北条貴志)

 協力:アップリンク

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